プーさんを連れてきた人
デイズニーキャラクターのプーさん、かわいいですよね。原作はA.A.ミルン、挿絵はE.H.シェパード、1926年にイギリスで出版された児童図書です。このプーさんを日本に紹介したのが石井桃子さんです。
石井さんは1907年(明治40年)に生まれ2008年(平成20年)に101歳で亡くなられました。
明治生まれって、すごい昔の人という感じですが、決してそうではないです。石井桃子さんは数々の英米児童文学を翻訳し日本に紹介したパイオニアです。くまのプーさんやピーターラビットのお話などは今も愛されています。何となく身近に感じられませんか?石井さんにはご自分の著書も多数あります。
翻訳した児童文学は多数あり、岩波少年文庫があれだけすばらしいものとなったのは石井さんの功績が大きいのです。
石井さんの生きた時代は第一次世界大戦、関東大震災、5.15事件、2.26事件、太平洋戦争と日本のみならず世界中にとって激動の時代でした。緊張しきったストレスフルの時代です。
そんな石井さんが、8年の歳月をかけ、御年なんと87歳で完成させた長編小説が「幻の朱い実」です。2015年1月16日に上巻504ページが、2月17日に下巻412ページが岩波書店から出版されています。自伝的な内容も含まれる小説です。第46回読売文学賞を受賞されています。
あらすじと登場人物
一言で言うと、主人公明子の若い頃からおばあさんになった現在までの女性の一生の物語です。時代背景は石井さんの生きてきた時代と重なります。戦争に向かっていく緊張の時代、世間は保守的で、特に女性は生き方に制約が多く、働くこともなかなか思うようにならない時代でした。そんななかで決して強い女性とはいえない明子は、自分の気持ちに誠実でひたむきに生きていきます。我を張りすぎることなく、時には妥協しながらも時代を生きていきます。
明子は親友蕗子の女学校の後輩です。女学校時代は顔を知っている程度でしたが、卒業後何年かして「朱い実」のカラスウリに導かれるように再会し急速に親しくなります。
作品は三部から構成されています。第一部では親友蕗子との深い交流についての描写が多いです。第二部は節夫との結婚生活を中心とした日々の暮らしについてこまごまと描かれています。第三部はおばあさんになってからのことですが、親友蕗子の記憶をめぐる明子の旅は続きます。蕗子と出会って何十年もたってから知った蕗子のことが書かれます。
感じたこと
明子と蕗子の会話は小気味よく、ユーモアにあふれています。辛辣に他人を批判することもあります。ただ蕗子は芝居がかったところがあって、初めのうちは少し鼻につきます。読み進んでくるうと彼女の状況がわかってくるのですが、愛おしくなってきました。
明子と蕗子は結局だんだんと会えなくなってしまいます。二人の若い女性のそれぞれの立場がよくわかり、どちらも可哀そうです。時代が違っていたらこんなに悲しい別れはなかったかもしれませんが、逆にこんなに深い交流もできなかったかもしれません。
明子は蕗子のために少しずつ自分で翻訳した童話を手紙などで渡します。この童話が蕗子の生きがいになっていきます。
蕗子は少し奔放な感じと情緒不安定なところがあります。彼女の運命から考えるともっともなことなのですが、彼女を象徴していると思われるのが、題名となっている「朱い実」です。蕗子の住んでいた家にあったカラスウリの実です。秋から冬頃にオレンジ色の数cmの大きさで枯れたつるにぶらさがるように生ります。食べられませんが目立ちます。人間には役にたたない植物です。蕗子も懸命に生きようとしているのですが、見た目や言動で誤解されることが多く孤独でした。謎めいた人です。
不幸だったかもしれませんが、明子は生きているかぎりずっと蕗子のことを考え続けていきます。だから会えなくなってからも二人の交流はずっと続いてきたと言えます。
石井さんは結婚されませんでしたが、明子は節夫と結婚し家庭を築きます。明子は洋裁が上手で節夫の親戚の娘さんのコートを直してあげたり服を作ってあげたりしますが、蕗子にもよく洋服を作ってあげていました。実際の石井さんも、洋裁をされたり手仕事をされたりしていたのでしょうか、洋裁のことを書かれている文章はウキウキと弾んでいます。
節夫の叔父は父親のような存在で明子夫婦を庇護してくれます。明子は叔父を尊敬し、叔父が病に倒れてからは献身的に看病します。病人への気配りや対応がすばらしくお世話するとはこういうこと、と思いました。
とっても大事な旦那様の節夫のことは蕗子ほど深くは書かれていないような気がします。もちろんお互いを大事にしているし愛しあっているのですが、明子の存在の深いところで結びついている蕗子と、現実世界に根をおろした旦那様は違うのです。
最後に
石井桃子さんの好きな方は、石井さんの歩まれてきた人生を思いうかべながら読まれるのではないでしょうか。プーさんを日本に連れてきた女性の記憶の一部がこの本の中にはあります。
もちろん石井さん抜きでも面白い小説です。読んでいるうちにすぐにお話の中に入っていけると思います。テンポはゆっくりで時々回想シーンもありますが、分かりにくい場面はありません。
たぶん今の時代より生き難かったころ、自分の心に誠実に生きた一人の女性のお話です。
文庫本も岩波書店から出版されています。
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